フランス・コロナ 隔離生活と自閉症と復活祭

澤藤統一朗さんのブログが最近読めなくなっていた。私は「ちきゅう座」のサイトに転載したものを読み続けていたが、4/1にこういう記事があったので原因が分かった。私のようにフランスから読んでいる人ももちろんいるわけだ。


マクロン大統領が「自閉症スペクトラム」の人には外出規制を緩くすると言った。
通常出かけているところに出かけ続けることを可能にしたものだ。

自閉症の人は決まった生活のリズムが狂わされるとパニックに陥ることもあるからだろう。

フランスの自閉症ロビーはかなり機能しているということだ。

高機能自閉症であるアスペルガーの人たちが、最初は「アスペルガー」と自称していたのに、次第に「自閉症」という言葉を使って、全体の権利拡大に関わっていった。重度の自閉症患者やその家族や介護者なのだけでは手が回らないし、疲れ切って限界がある。「サバイバー」と呼ばれて社会的に活躍している人たちが、後に「アスペルガー」と診断されて、自分たちの「生きづらさ」の原因を理解したことがきっかけで「啓蒙活動」を始めた。

でも、私の一番親しいアスペルガーの活動家は、今回の外出規制へのリアクションが反対だ。
その人はもともと、社会生活や人間関係が苦手で、できることなら引きこもっていたい人だ。
今回の「隔離生活」で、誰とも会わず、一日中変化のない時間を過ごすことができるというのはいわばそれまで想像もできなかった「夢の生活」だそうだ。その人ももちろん定期的に仕事に行っていたわけだけれど、その「通常の生活」そのものが非常な無理と努力の積み重ねだったわけで、「外出規制」は逆に、毎日の不安を取り除いてくれる僥倖だったというわけだ。こんな人は、外出規制が解かれて仕事に復帰しなければならない時の方がひょっとして大変かもしれない。

どちらにしても、外出規制や隔離は、その「意味」を理解できるかどうかで「耐久能力」が変わるということだろう。
自閉症の人で、どうしていつもと違う生活を強いられるのかを理解できない人の場合はパニックに陥るのは想像に難くない。
それなら、他の精神障害や認知症などの場合でも、なぜ突然生活のリズムが変わり、行動に禁止や制限がかけられるのかを理解できない人たちが同じようにパニックに陥るかもしれない。彼らの世話をする人たちも大変だろう。

「想定外の生活の変化」は、どんな人も事故や病気や災害などで経験する場合があるけれど、今のフランスのように、毎日毎日「コロナ特集」ばかり、イタリアやスペインなどの隣国の様子も含めて視聴するはめになると不安体質の人はまいってしまう。
「理由」を知り、「理解」をして、アドヴァイスをもらって、「工夫」して、できればそこに個人的な意味を見つけないと「乗り越える」ことは難しい。

リラックスする力、緊張を解き、心身を緩める能力というものには大きな個人差がある。
楽器を教えていても、肩や腕や指のこわばりのある生徒からそれを取り去るのが一番難しい。
ヨガや瞑想法やらによってそのコツを覚える人もいるだろう。
私はこのブログの「五十肩」の治療で整体から運動療法、霊能治療までさまざまなものをレポートしてきたわけだけれど、楽器と踊りを何十年もやってきたこともあって、「力を抜く」ことに抵抗がない。時々、治療の途中で、「はい、楽にして」と言われた後で、「すごい、優秀ですねー」と感謝されることすらある。(唯一体がこわばると自覚しているのは歯科医で処置をされている時で、その時に、首から下の緊張をどうしたら緩められるかを試しては観察している)。

で、外出規制の生活、いろいろな「乗り切り方」が提案されているけれど、どんなものでもいいから、「進歩がみられること」に挑戦しようというのがあった。進歩とか、達成感とか、とにかく、普段はまとまった時間が取れなくて放置していたことを片付けるとか、やり終えるとか、生産的でなくとも役に立つことでなくてもいいから、ちょっと続けて練習すれば「明日は今日よりうまくなる」という実感があるようなものに手を出しましょう、という。

でも、そういうアドヴァイスを積極的に求めて応用するだけの前向きな気持ちがそもそも必要だ。
「無駄に恐れるな」と言われても不安に押しつぶされる人もいる。

ルーアンの大司教がついに、「恐れることを恐れるな」と言い出した。
来週はいよいよ復活祭の聖週間に入る。
フランスのカトリック界は公開のすべての典礼ができないという前代未聞の事態を前にして、なんだかむしろ密度が濃くなっている。
今回の「十字架の道」は、キリスト者だけではなく全世界の人がたどっているというのだ。

フランスはアルザスのミュルーズでの福音派の3000人の大集会(2/17-24)がクラスターになった。フランスには数少ないメガチャーチだ。
そのことで、このプロテスタント教会がスケープゴートとなっている。この事情をカトリック教会が冷静に分析しているのが興味深い。
「疫病」を前にした人々にとって、「宗教」や「宗教者」が救いを求める対象になるのか「悪魔」の手先のように見なされるのかは、紙一重だということを、フランスのカトリックも歴史の中で体験してきた。

第二次大戦以来の危機の中での復活祭という「試練」は、少なくともフランスのカトリック教会にとって一つの啓示のように働いている。
オリンピックのような「祭典」が中止や延期になった、というのではなく、もともと「復活祭」に向かう四旬節は、苦しみや迷いや痛みや終末観に裏打ちされている。その特異な祭典をカトリック教会がどう生きるのかを見ることができるのは刺激的だ。

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