堀文子さんと佐村河内守さんのこと

最近読んだ『婦人公論』(12/7号)で興味深いインタビュー記事が続けて載っていた。

ひとつは堀文子さんのもので、もう一つは佐村河内守(さむらごうち・まもる)さんのものだ。

私はどちらも知らなかったが、この記事を読むだけでふたりともとてつもない人だと分かる。

堀さんは95歳の現役画家で、69歳でイタリアにアトリエを構えたり、82歳のときに幻の高山植物ブルーポピーを求めてヒマラヤを走破したり、その後大病して旅行ができなくなったら顕微鏡を買ってプランクトンなどをモティーフに絵を描き続けているという。

70歳になったら長時間飛行機に乗るのは嫌だなあと思っている私など、80過ぎて大病したら死ぬ以外の選択肢を思いつかないが、すごい人もいるもんだ。

と思って、その後でネットで彼女の絵を検索したら、なんと、私の持っているお気に入りマグカップの絵を描いた人だった。

成川美術館のミュージアム・ショップのサイトで一目ぼれして割れた時の予備も入れて2個注文した鳥のモティーフのやつだった。今見るともう品切れだとある。これがミジンコのモティーフだったら購入していたかどうかは分からないけれど、工芸的ですごく気に入っている。

こういう形ですでに作品になじみを持っている人が、そんなにすごい人で、いわゆる「100歳でも現役」風の超人だったのは不思議だ。

その「現役」ぶりが、こうやって具体的な作品に結晶している人だから、組織の中で「老害」などとこっそり言われなくても済むし、年齢や生き方を知らなくても、作品に惹かれたというのはいい出会いだなあと思った。

ところが、その次のインタビューは、聴力を喪った作曲家の佐村河内守さんで、これはまた壮絶の一言に尽きる。

他のインタビューもネットで読めるけれど、婦人公論のものでは聴力が完全になくなった時の衝撃の状況がすごくて、身が痛くなるようなものだった。

しかも、いつも轟音が聞こえているとか、腱鞘炎もひどいとか、心身症もあるとか、最悪の状態がデフォルトであって、これはもう、障碍を克服して成功したとか闘病して乗り越えたとかいう類のサクセス・ストーリーなどでは全然なくて、壮絶としか言いようのない毎日を生きている人なのだ。

私は前に「長寿ポルノ」について書いたように、超高齢だとか難病や障碍がありながら現役で一流とかいう特殊な人々をあまり宣伝して、普通の人に幻想を与えるのはいかがなものかと思っていたのだが、この作曲家は別格のように思えた。

彼の曲を弾く人は涙を流しながら弾いているし、指揮者も感極まり、聴衆も大感動の渦、という話なのだから、もはや社会現象であるらしい。

そんな噂の交響曲やレクイエムのCDを是非手に入れて友人たちに聴かせたい、と思ったのだが、ネット上の動画などで試聴する限り、あまり心を動かされなかった。

確かに演奏者や観客の思い入れが普通ではないので、私ももしコンサートホールに居合わせたら、演奏者と聴衆の発するサイコ・エネルギーに巻き込まれて絶対に魂を揺さぶられるだろうという想像はできる。

それがすごいカタルシスだという想像もできるけれど、たとえばオリンピックの開会式の現場に居合わせたり、何かのスポーツ大会で自国チームが接戦の末勝った瞬間に居合わせたとしても、その瞬間は大感激するだろうと想像するのと同じような種類のものだ。

ネットの音をポータブル・パソコンを通して聴く限りでは何も感じない。

バロック耳の私にはこの種の交響曲が分からないのかもしれないと思って、ピアノのレクイエムや、ヴァイオリンの無伴奏シャコンヌも聴いてみたけれど、ヴァイオリンも重音が多くて難しそうだしピアノも難しそうなので、是非練習して弾いてみたいという気はしなかった。

ちょうどそのすぐ後でショパンの葬送行進曲を弦楽四重奏に編曲したものの練習に行ったのだが、生演奏だからかもしれないが、ショパンからの方が存在の根から洗われるようなすがすがしい再生の力をもらえる気がした。生きる希望が湧いてくるというより、生きててよかったという感じだ。

まあ、佐村河内さんがたとえられるベートーヴェンにしても、モーツァルトにしてもシューマンやショパンやシューベルトにしてもみな庶民の感覚ではかなりつらく苦しそうな人生を送っているから、大きな苦しみに濾過された清冽な美しさというものは理解できるけれど、ともかく私たちには、特に音楽では、言語の壁もなくて、多くの天才が残してくれたバイオ・メッセージがあるので本当に幸せだと思う。

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