フランス・コロナ 隔離生活 病気と死と宗教

今、カトリック世界は復活祭前の「聖週間」に突入している。

4/12が復活祭、そして4/23からはイスラムのラマダン月に入る。

今回のパンデミックで不安に駆られ、それまで封印していた「死」の可能性を前にして、こういう時とばかりに「宗教」に光が当たる。

皮肉なことに韓国やフランスのキリスト教系メガチャーチの大集会がクラスターとなってスケープゴートにされた例もあるけれど、彼らの「謝罪」やパニックは、他の宗教の昂揚を妨げない。

イスラエルでは原理主義的シナゴークでの礼拝が続いて感染源となっているようだし、インドで牛の尿を飲むとか、私の霊力でウィルスを敗退させるというグルがSNSで叫ぶとか、日本のグルがウイルスを「霊査」して新型コロナウィルスは「人を殺したい」という想念、憎しみの波動を持っていると言うなど、いろいろ話題になっている。

でも、振り返ると、明治10年代にコレラが流行った時、当時「西洋一神教型国家神道」形成にまっしぐらだった政府(内務省の社寺局・衛生局)は、神職や仏僧を統合した教導職に対して、伝染病対策(『諭解』)を訴えたと記録にある。

まず「此等の災害はそれぞれの道理ありて起るものにて決して神佛の冥罰には非ず又惡魔の所爲にも非ず」と切って捨て、伝染病の原因は空気、水、食べ物、他人との交通の四つなのでそれぞれに衛生観念の強化が必要で、「凡そ劇場料理店寺院旅店其他職工場製作場鑛業場等にて衆多の人の羣聚せる場所にて各人成るべくは暫時其場を出て新鮮なる空氣を適宜に吸ふ様にせしむべし」とするのは、現在の「三密を避けて」というのと変わらない。曹洞宗の僧侶のブログによれば、この通達を受けて、当時の曹洞宗務局は特に、「但教徒ノ内、教法上ノ加持祈祷等ヲ以テ医薬及ビ豫防法ノ妨害を爲スガ如キ意得違イノ者之レ無キ様、取リ締マリ致スベシ」とし、「加持祈祷の力を妄信して、医学的見地に基づく対応を妨害しないように促した」とある。

つまり、100年以上経っても、これだけ科学技術が発達して人間が全能感を持っても、困った時に神仏を恃んだりまた神仏の力を媒介できると称したりという「宗教」と、逆にプラグマティックな対策を冷静に推進しろという「合理性」とが共存したままだということだ。

私がこのブログを開始した時、まず、ルルドの水やザムザムの水を試して肩の痛みの消失や可動域の回復が得られるかを試してみたことを書いた。まあネガティヴな「副作用」はないし、一応、手に届くすべての「療法」をチェックしたかったからだ。
私には痛みや不自由さの他に「命の危険」はなかったけれど、このブログを通じて知り合った人の中には亡くなった方もいる。

いろいろな方とのつながりや共感が一番の収穫だった。今、フランスでは宗教的に大きな意味のある期間の中でこの「隔離危機」を生きながら、今あるつながりはどういう意味を持つのだろう、と考えている。

驚くべきことは対コロナ翼賛体制が、「弱者の命を救う」という大義でフランス人に全体として受け入れられていることだ。
復活祭を前にした時期というせいかもしれないけれど、こういう時に、ヨーロッパ形成の基盤に刻まれた「弱者優先」のキリスト教理念が脊髄反射的に顕れているのだとしたら大したものだ。

一方で、日本人の根っこに「死は穢れ」というのがあるなら心配だ。

グローバリゼーションだなんだといっても、人間の存在の根っこは変わっていないなあと驚かされる部分もあるけれど、社会進化論に従えば不利かもしれない「弱者優先」が、長い時間をかけて、その存在の根っこを豊かにしてくれているのだと信じたい。

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